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シリーズ28 世界文化遺産 三角西港を訪ねて                                           電信文庫表紙ページへ

第五景 ムルドルハウスと浦島屋  (2015年7月15日 訪問)

<ムルドルハウス>
 ムルドルハウスとは、三角西港を設計したオランダ人技師、ローエンホルスト・ムルドルを記念して近年建てられた建物で、現在は物産館として運営されている。建物の形状はいかにもオランダ、特に風車をイメージしているようにも思える。また三角西港の石垣の監督を遣った小山秀(之進)が長崎のグラバー邸を手がけたという話もあることから、その当たりも意識してつくられたかもしれない。この建物について調べると、平成2年落成とあった。昭和58年頃に三角西港シンポジュウムが開かれ、また昭和60年から三角西港の港湾環境整備事業が始まっている。三角西港の再評価が行われた結果、造られた建物の様である。その建物の前庭にソテツが植っていて、雌花を付けていた。

三角西港 蘇鉄の花
 ソテツ(蘇鉄)の花(雌花)

 ここで簡単に、設計者 ローエンホルスト・ムルドルについてここで記載しておこう。(Wikipediaを参照して記載。)1848年オランダ南西の地ライデンに生まれる。王立土木工学高等専門学校を卒業後、水利省に勤務し、河川調査、スエズ運河交易地の開設、ハーグの水道運河計画、ハーレムとブルーメンダール間の鉄道敷設設計を行う。1879年31歳の時に来日、内務省土木局の一等工師となる。それから10年にわたり日本各地で築港、建設のための測量や指導を行う。その後、オランダに帰国し、オランダ国内やロシアで活動している。没年は1901年52歳の時である。日本ではムルドルについての評価は高いとは言えない。それはあまりにも短い10年という期間であり、手がけた物件の多さからすると仕方のないことだと思われる。しかしオランダでは日本に来た他のお雇い技師よりも高い評価があり、最近、日本でもムルドルの行った業績を拾い出し、再評価する機運がある。(注-1)

三角西港 ムルドルハウスと前面道路 三角西港 ムルドルハウスの塔部分 三角西港 ムルドルハウス入口側
写真説明:  左写真 ローエンホルスト・ムルドルを記念して建てられた家で、そのままムルドルハウスと呼ばれている家とその前の水路と道路。いまでも2台の車が余裕ですれ違える位の道幅がある。中央・右写真 ムルドルハウスはちょっとした物産館になっている。

          

<歴史資料館(旧浦島屋)>
 平成5年に一枚の写真から復元された建物といわれている。宇城市の広報には設計図を元に復元されたとあるが、そうであれば旧建物の写真に近い建物になっているはずである。多分写真を元に設計図が作られ、その設計図から建物が出来たと思われる。その写真に写っている建物は、明治20年に現在龍驤館が立っている場所に建てられていたようだ。またその製作者は小山秀と言われている。彼はグラバー邸など長崎の木造建築、石造の浦上天主堂等も手がけている。この昔の浦島屋に、明治26年に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が長崎から三角港に来て、この浦島屋に立ち寄ったことが記載されている。それは「夏の日の夢」という本の中で語られる。ホテルの様子や、給仕の女性、女将「芳」について褒め言葉が沢山記載されている。特に浦島屋の女将の芳については、べた褒めの言葉を連ねているようだ。(注-2) 浦島太郎が竜宮城でもてなされた事に思いをはせて、本の中では次第に夢の中へ話が進んでいく。ところで現実には、三角西港の凋落に合わせて浦島屋の客足が遠のいたのであろう。明治37年に、国に売却されて中国の大連に移築されている。その結果、建物は中国で喪失したと考えられる。今回私が訪れたときは、内部が公開されておらず、外見のみについて写真撮影し、文も内部については記載しない。昔の建物の写真はネットから調べて見つけたが、残念ながら写真はコピー転載出来ない。(注-3)そのため現在の建物、また当時の建物についても、古い写真を見て、文章で述べるにとどめる。昔の浦島屋は南側の出バルコニーの窓が小さく、全体が石造りのように見える。バルコニーの柱も丸柱の様に見える。(注-2参照)バルコニーの手すりは間隔がゆったりとして、開放感がある。また各軒先の飾りが細かくて、より優雅に見える。バルコニーの欄間飾りの角度が梁方向に緩やかで、柔らかい曲線で作られていてソフトな感じがする。そういったいろいろなものを加味して評価すると、現在の建物より質的には上質であった様に思われる。だが元の建物の写真は画質が良くないので詳細が分からず、想定した所もある。浦島屋は三角西港ゾーンに入ると、まず目に入ってくる建物である。その角度から見ると、周りが広々としてロマンチックな雰囲気がある。裾のたっぷりとした華やかなドレスを着た女将の芳さんが庭へ迎えに出て来そうである。右側より正面玄関へ廻る。入り口周りが何か取って付けた様な感じがしないでも無い。旧の浦島屋の玄関の写真があれば見てみたいところだ。さらに廻るとガラリ戸が開いている。その観音開きになったガラリ戸を、開いたままに保持するS字の金具が見える。窓全体の大きさと、そのS字の金具の大きさのバランスが良い。中のガラス窓は上げ下げ窓になっており、窓全体のバランスも良い。この浦島屋の建物の存在は三角西港の雰囲気を作り出すのに大きな役割を担っている。

三角西港 浦島屋南面 三角西港 浦島屋玄関側 三角西港 浦島屋窓詳細
写真説明:  左写真 浦島屋南面日傘を差した洋装の麗人が似合う景観である。中央写真 正面入り口玄関の庇が浮いている感じがする。もしかすると2階はバルコニーの様に工夫があったかもしれない。右写真は窓部の詳細。デザイン的にバランスが良い。雨戸を止めるS字の止め金具が洗練されている。
     

*** 注 記 ************************************************

(注-1)  ローエンホルスト・ムルドルの日本での業績について
   (ウィキペディアより。本文中のムルドルの経歴についても概ねウィキペディアを参照して記載した。)
主な業績としては、児島湾干拓事業、広島港築造、鮫港整備、鬼怒川治水事業、富士川治水事業、亀田川転注事業、利根川開削事業、淀川治水事業、下関港 整備等が揚げられている。そして三角港(西港)整備事業。これだけの量を10年 間に行ったとすれば、相当な量と言えよう。 
 
(注-2)  ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)「夏の日の夢」 林田清明訳 一部を紹介しよう。
その旅館は、楽園の ように思えたし、女中メイドた ちも天女のようだった。(中略)2階のバルコニーの杉の円柱の間からは―― 黄色い小舟がもの憂げに停泊している――  三角港が見え、その湾曲した浜辺に沿って、綺麗な灰色の町並みが望める。そして、釣り鐘を伏したような、緑の大きな岩山と岩山の間に、港の開口部があり―― その向こうにある地平線にはきらきらした夏の輝きがあった。水平線の辺りには、古い記憶のように、山々の影がぼんやりとしている。灰色の町と黄色い舟と緑の崖の他は、みんな青色であった。
そのとき、風鈴の音ねを 聴くようなすずやかな声で、「ご免下さいまし」という丁寧な言葉が聞こえると、私はうたた寝の白昼夢から覚めた。それは、旅館の女主人が茶代 のお礼にやってきたもので、私も両手を付いてお辞儀をした。彼女はとても若くて、歌川国貞の「胡蝶の美女」や「青蛾の娘図」を思わせる、うっとりするような、とても愛想の良い人だった。http://www.geocities.jp/kaijyonouta/hearn/dream_summer.html
   
  一部緑の太字で表した部分は私が注意を引くために入れている。つまり当時の浦島屋のバルコニーに立つ柱は丸柱だったとラフカディオ・ハーンは証言している。現在の柱は角柱である。
   
(注-3) 建設の施工企画 2008年5月号N.699にこの項に関する記載がある。詳細を知りたい人は参照されたい。
特集 歴史的遺産・建造物の修復、復元 港湾の歴史的景観形成を計る三角西港
~築港百二十周年、更に世界遺産を目指して~ 著者:宮石昌史
この中に改修前の宇土郡役所、三角海運倉庫、龍驤館、浦島屋、高田回漕店の写真が掲載されているので参考にされたい。  

 

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