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シリーズ28 世界文化遺産 三角西港を訪ねて                                           電信文庫表紙ページへ

第四景 世界文化遺産の位置づけ  (2015年7月15日 訪問)

 今回、日本各地にある江戸末期から明治中期頃に造られた施設が、産業革命遺産として取り上げられて世界遺産に登録されたわであるが、その意味についてここで少し考えておきたい。今回指定を受けた施設は、多くの地域に分かれ、多岐に亘っている。その施設ごとに付けられている経緯を読んでみると、果たしてそれらが適切であったのかという疑問を感じるところもある。というのは今回の産業革命遺産という指定が、日本の封建社会から西洋の技術や文化を取り入れ、農業中心の社会から、工業国として転換していく起点となるものという括りになるのであろうが、ただ単に、西洋の産業技術を取り入れて施設を作り、製品を生産したという評価ではなく、西洋の産業構造を的確に吸収した日本人の科学的、思考の面での成熟度が、それらの技術を受け入れるだけのかなりの高さを持っていたことを決して忘れてはならない。そのうえで申請された施設群を見直すと、あまりにも多岐に亘っているためその評価については、いくつかの疑問が生じている。(注-1)

三角西港 案内板 三角西港 護岸の遠景
写真説明:  左写真は三角西港入り口にある案内板に書かれた図面。開発計画の図と殆ど変わらない。右写真はもう少し手前の所から三角西港を撮った写真で、写真の真ん中付近が左写真の右下付近になる。

 一つの例をいえば、今回の世界文化遺産として指定された施設群の中に松下村塾が含まれているが、松下村塾自体は産業構造の改革的変化に大きな足跡を残したとは言いがたい。塾卒者には造船業や鉄道建設に関与した人もいるようだが、松下村塾の中でのウエイトは軽く、松下村塾の価値は、政治や社会構造の変革にある。またその本位は尊皇攘夷にあったが、そのまま行ったとしたら明治維新に至ったかと言われれば非常に怪しい。一方では佐賀藩や薩摩藩は鎖国下の時期にあったにも係らず、早くから海外と貿易を行い、西洋文化に触れていた。そうした時代の中で、西洋文化がアジア、特に清朝に対して圧倒的な近代産業の力を示していた情勢から工業化の必要性を知っていたのである。その佐賀藩や薩摩藩、長州藩では、明治維新になるよりも20年程前の嘉永年間から安政年間に掛けて反射炉を造り、大砲の製造に携わっていた。今回の明治の産業革命遺産の中のおよそ半数程の施設は、その時期に築かれた施設である。たとえば薩摩藩の集成館の施設群(反射炉、機械工場、紡績工場関連施設)や長州藩の萩の反射炉、韮山の反射炉などは、嘉永4年(1851年)から安政4年(1857年)にかけて作られている。これらが江戸末期に造られている事から、今回の”明治日本の産業革命遺産”と標榜する2つ目の疑問と言える。(注-2)

三角西港 休憩所 三角西港 中央広場の回廊と井戸 三角西港 中央広場の回廊
写真説明:  左写真 は入り口近くの四阿。休憩所でもあり、ノスタルジーな雰囲気を造っている。中央・右写真 は中央広場を囲う回廊。中央写真の右手奥はポンプの付いた井戸。当時はポンプで水をくんで喉を潤したのかもしれない。

 ただ、これらの最新の技術力を持ってしても、西欧諸国との実力の差を認識せしめたのが、長州藩と欧米四カ国との下関戦争(1864年)であり、薩摩藩と英国間の薩英戦争(1863年)である。これを契機に尊皇攘夷論から倒幕開国論へと変貌していく。その後、明治維新(1868年)になり多くの西洋の技術を学び取り、技術を発展させていくが、それは日本人の器用さと物事に真摯に取り組む姿勢、技術を理解する能力などのそれまで培われた文化の基盤が大きな力を発揮したのである。決して明治維新後の技術の刷新だけで語れるものではない。話は戻るが、今回の明治の産業革命遺産の中に松下村塾が含まれたのか。そこには政治的な要素が強く滲んでいると思われる。門下生の中には封建制を打破し、明治維新への流れに導いた人達が多くいるのは事実だ。そして倒幕には薩摩と長州が同盟して行ってはいるのだが、長州勢の政治的力が強くなり過ぎて、西郷隆盛の離反を誘い、薩南戦争を経た後、薩摩は政治的な表舞台から一歩引いてしまう。(注-3)表向きは交互に総理大臣を出してはいるが、その頃から長州閥によって日本政府が主導されるようになる。その中の木戸孝允、井上馨、伊藤博文、桂太郎等、いずれも塾生ではないが、松下村塾と何らかの繋がりがある人たちによって、政治が動かされている。その政治の流れを受け継いでいるという気持ちは、その後に続く岸信介、佐藤栄作、現在の安倍晋三という歴代の山口県出身の総理の中に生き続けている。そして今(この文を記した当時)、安倍晋三が総理を務めている時期に”明治日本の産業革命遺産”と改題され、その中に松下村塾が持ち込まれたのは、その現れと言えるだろう。(岸信介と佐藤栄作は兄弟、安部晋三にとって岸信介は母方の祖父という関係になる)

 前に書いたように、この”明治日本の産業革命遺産”の施設の多くが、江戸末期に既に存在していた施設である。これは明治時代が産業革命的であったというより、すでに江戸末期より産業革命を促す動きがあり、それがペリー来航や下関戦争、薩英戦争という諸外国から強い刺激を受けて明治維新へと進んでいったし、その後外国の技術を取り入れて産業革命的に発展を遂げるきっかけを作ったと言えるだろう。勿論日本が封建制度の社会から脱却し、文明開化と呼ばれる劇的な変化を見せたのは明治時代になってからである。世界から見れば日本が大きく発展した時期が近代において2回ある。一度目は明治維新後であり、二度目は第二次世界大戦後である。いずれも対外戦争で完膚なきまで敗戦して、最低の状態から奮起して立ち上がったと言えるだろう。これもまた日本人らしい性格なのだろう。今の平和な時期に、日本の新しい興隆を期待することは望むべくもないのかもしれない。

三角西港 石橋(海側) 三角西港 石橋(山側)
写真説明:  水路に掛けられた石橋の一つで、三の橋。左写真 海側から見た写真で、右写真が山側から見た写真。一枚の石で造っているため両側の基礎をせり出させて造られている。国の重要文化財 

 さて、三角西港自体の評価についても述べておこう。三角西港の技術的な面での評価は各景で述べている。その技術面での評価は高いと思われる。しかしその後の時代への引き継ぎや次世代への発展というものが見られなかったことについては、マイナスと捉えられるだろう。それが一時期、石炭の出荷に関わったと言うだけで、三池炭鉱地区の産業遺産群に押し込まれたが、それは正しい評価ではない。現在三角西港のゾーンの中には、炭鉱に関する施設や史跡は一切見られない。私たちは三角西港については、都市計画上の面から、そして明治時代の文化を残すゾーンという面から、正しい位置づけで見直していかなければならないと思う。(注-4)

***[注記]*****************************************************

(注-1)  明治維新前の施設には、薩摩藩、佐賀藩、長州藩がそれぞれに技術を導入して、試行錯誤の上、施設を造っている。それが明治以降、中央政府が造っていく施設は、そ れ以前の施設とは関わりなく造られている。各藩が築いた技術の上で明治の産業施設があるのならば、一連の物として捉えられるだろうがそうはなっていない。ここで不思議に思うことがある。富岡製糸場が単独で、文化遺産登録されているが、それと今回の”明治日本の産業革命遺産”の関係である。富岡製糸場が造られたのは明治5年。今回の産業革命遺産の範囲に十分に含まれている。そしてまた、今回の資産の中には薩摩藩の施設の中には紡績工場もある。この二つの施設の関係は、各藩の製鉄施設と八幡製鉄所との関係とどう違うのだろうか。またこの”明治日本の産業革命遺産”の中には明治時代の山口県の遺産は存在しないことが、余計に松下村塾や萩の城下町が含まれたことに違和感を覚えるのである。 
 
(注-2)  この遺産登録については、当初は”九州、山口の近代日本の産業遺産”という表題が用いられていた。ところがある時から、”明治日本の産業革命遺産”に変更されている。それはちょうど文化庁主導から、政府主導に切り替わった頃の様に思われる。江戸末期の施設群がこの文化遺産群の約半数であるのになぜ、明治という時代のズレを感じさせる言葉を入れたのかという疑問がある。なぜ正しい表現として”近代日本の産業遺産”でなかったのか。そこにはどうしても”明治”と”革命”という言葉を入れたかった人達の存在を感じてしまう。 
 
(注-3)  薩南戦争以後、薩摩藩から出た政治家は極端に少なくなる。主要人物が薩南戦争で亡くなったこともあるが、その後も数が増える事はない。ただ、警察関連のトップ、若しくはそこに近い位置を占める人材を多く輩出している。 
 
(注-4) 世界遺産として評価され、登録に至るための項目が6項目あり、その中の幾つかに当たる場合に登録への勧告が行われる。その中の三角西港に関わりが有ると思われる項目を拾ってみよう。
(項目についてはWikipediaより)
の部分は三角西港に当てはまる 
  1) 省略 
  2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
= 三角西港の今回の指定の主題をなす部分。オランダとの交流によって誕生。
  3)  現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
= 明治時代に造られた3大築港の一つ。現存するものは三角西港のみ。 
  4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
= 近代日本の幕開けを彩る種々の建築群、石造技術などがある。 
  5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
= 明治時代の港湾施設として都市計画として地域が造られ、当時のままで現存する例。 
 
  三角西港はこの項目の内容通りの施設や環境を保持しており、その評価に十分に耐えうると思わ れる。 


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