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シリーズ28 世界文化遺産 三角西港を訪ねて                                           電信文庫表紙ページへ 

第三景 三角西港の開発について  (2015年7月15日 訪問)

 一口に三角港(西港)の開発と言っても、港湾施設だけではない。国と県が力を入れて一級の港湾施設を造ろうとしたのである。そのためには、港と都市、熊本を結ぶ道路、寒村であった三角の街の開発がその設計の中に組入れられたのである。当時、国のお抱え技師として雇用されていたオランダ人ローエンホルスト・ムルドルは熊本県から提出されていた港湾計画を見直し、現地視察を経て三角の寒村に港湾施設を造ることを提言している。なぜここが選ばれたのだろうか。それは有明海や不知火海は遠浅の海岸が多く、熊本県から提出された熊本市の百貫石港もその遠浅の海岸であった。この三角西港付近の地形を見ると、中神島が島山のように立ち上がっている姿、また大矢野島のこの海域に面する急激な崖、三角港予定地から三角岳への急激な傾斜は、大矢野町と三角半島に囲まれたこの内海の水深が相当深くなっていることを十分に示している。(資料によると水深は大凡36m、ビル9階~10階建て分の深さがある。)このゾーンの海はかなり大型の船も通行できる水深を持っている。しかしこの海の周辺が崖地である事が逆に三角西港の限界点になったことが後で分かってくる。有明海や不知火海の干潮の差は大きく、その点についてムルドルは浮き桟橋を設けることで対応することになる。またムルドルは大矢野島、中神島、三角半島に囲まれたこの地形が内海となって、嵐や津波に対して防護することを見て取っていた。

三角西港 開発計画図 三角西港 建屋配置模型
写真説明:  左写真は開発計画図。青は官公署。海岸沿いの緑色は海運業の倉庫など。左上のエンジ色は遊郭。肌色は住宅や旅館・商店を表している。右写真は計画案模型で、浮桟橋が三か所。思ったより道路を広く取っていて、現地を歩いてもそれが実感できる。丸い橙色は展示ケースに天井ライトが反射している。
(上記の2枚の写真は龍驤館に展示されている)

この開発には当時のお金で30万円(大体明治時代の1円が、2万円くらいと考えられているので、そこから言えば30万円は、大凡60億円ほどと考えられるが、それでは少し少ないような気がします。)のお金が掛けられている。そのうち、三角港と熊本市を結ぶ道路の建設に大凡半分のお金が使われている。その道路は現在、国道57号線となって生きている。また現在、国道57号線はかなりの長さに渡り、JR三角線と隣り合わせで走っており、道路建設後に行われた鉄道敷設にも大きな影響を及ぼしたと考えて良いだろう。今三角港(西港)の海岸線には石積みの海岸線が残っている。その石は対岸の大矢野島の飛岳から運ばれてきた安山岩である。九州には石造の橋が多く、その長年築かれた技術を持つ天草の熟練した石職人達によって、ここの護岸の石積みが行われている。海側にはかなり広い石敷きの埠頭が造られている。それも潮の上がり下がりげを考慮してか、2段になっている。そしてこの埠頭に最も近いところに、倉庫群や回漕店などが建ち並んでいた。そしてその内側に道路を挟んで両側に住宅や旅館、遊郭等が建てられていたようだ。この計画地内では全て瓦屋根2階建てでしか建築の建設が許可されなかったらしい。そして少し山を登った高台に、郡役所や裁判所などが造られている。役所など重要な施設は高台に造るという原則が、この頃から当て嵌められていた。津波や高潮に対応するためであろう。

三角西港 護岸の詳細 三角西港 護岸とアンカー 三角西港 護岸の床
写真説明:  左・中央写真 2段に造られた護岸。アンカーのある床は近代の造作のようだ。写真と比べても、その造りの違いが分かる。2段にしているわけは干満の高さに合わせるためと説明されている。

この町を通る道路は十分な広さを持っている。計画地域面積6万㎡に対して道路部分が2万4千㎡、およそ1/3以上を占める。いま国道57号線として使用されている道路は当時のままの広さで、現代の自動車社会でも十二分に通用している。道路脇には歩道もあり、道路は3本の水路を渡っているが、歩道にもそれ専用の石橋が架けられている。いろいろな三角西港について書かれた資料を読んでいると見慣れない言葉を見つけた。”浮町になっている。”と書かれている。この町のもう一つの特徴である水路の存在によって、街が水に囲まれている状況を作り、浮いたように見えると言っているようだ。この3本の水路と山際にある水路の役割は、水を流すことにある。何の水かというと、山から湧き出る水であり、生活排水であり、海がもたらす高潮や津波で街にあふれた余分な水を海に帰すための水路である。これが潮の干満によって海水が寄せたり、引いたりして水路の清掃が行われる様に計画したのだ。糞尿の処理は出来ないものの、雑排水処理のある都市計画として、当時は最先端を行っていただろうと思われる。

三角西港 街中の水路 三角西港 水路と街路樹 三角西港 水路を渡る石橋
写真説明:  左・中央写真 海に繋がる水路とその両脇の石敷の道路。水路に掛かる樹木もあって落ち着いた雰囲気を感じる。右写真水路に架かる橋で車道や歩道に掛けられていて欄干が幾つも見える。(手前の二つが歩道の両脇、奥が車道の歩道寄りの欄干) 
     
この様な素晴らしい街造りが行われたにも関わらず、数十年で港としての機能が衰微してしまう。その原因が、前に書いた三角西港の発展する余地がなかった為である。海と山に挟まれ、平坦部が少ないために、思う様に施設の拡充が出来ない。西港まで伸延される予定であった鉄道も、敷設する平坦部がないために途中で止まってしまう。広い敷地を必要とした荷置き場も取れず、他の場所へ主要な港湾機能を移転させるしかなく、現在の三角港(東港)に移っていった。三池炭鉱の積出しも他の港へ移転することになる。結果、三角西港はそこで時を止めてしまい、開発当時の姿のままを今に伝えている。しかしその当時の姿を残したままになっている状況が現代において再評価された。それは良く考えると、”変転の妙味”と言えるだろう。実に面白い。





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