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シリーズ28 世界文化遺産 三角西港を訪ねて                                           電信文庫表紙ページへ       

第八景 高田回漕店と三角西港の未来  (2015年7月15日 訪問)


<高田回漕店=市有形文化財>
 三角西港が出来た後、直ぐ建てられたお店である。建てられた年月は明確ではないようだ。三角西港の見直しと周辺の文化財の保護が求められて平成10年に、廃屋同然になっていた建物が、当時の様子を再現した建物として復元された。見た感じでは、一寸大きめの住宅のように見え る。中央から少し左寄りにタタキの土間が在り、裏へ抜けられるようになっている。タタキの部分も表と内側を切る格子戸があって、勝手に中には 入るなと言うことが、その頃もあったに違いない。タタキの両側には履き物を履いたり、脱いだりするための板框がついていて、そこから畳敷きの 部屋に上がるようになっている。その畳敷きの部分が事務所として使われていたのであろう。畳敷きの事務室は坐式の文机を思い起こさせる。表側 の事務ゾーンは動きが多いためか板張りである。また畳敷きの事務室の部分も襖で幾つかに区切られる様になっていて、その上の欄間も丁寧な透か し彫りの作りになっている。2階は従業員の宿泊を兼ねた控えの部屋になっているのだろう。そこから降りる階段も、丁度内と外をわける格子戸の 所に降りられるようになっている。階段は内の事務所、外の事務所、タタキを経由して外へも出やすい位置に付けられている。

三角西港 高田回漕店全景 三角西港 高田回漕店裏側 三角西港 高田回漕店2階廊下部分
写真説明:  左写真 高田回漕店正面(西側)中央写真 同裏側(東側)右写真 2階部分を見上げる。高田回漕店は本店が熊本にあり、ここは三角港の出店になる。西・南方向は台風の影響を受け易いので窓を小さくしているが、東側は南国のため大きく解放した造りにしているようだ。 

三角西港 高田回漕店内部三和土通路 三角西港 高田回漕店和室(事務室) 三角西港 高田回漕店箱階段
写真説明:  左写真 三和土の通路。表と裏を繋ぐだけではなく、公用と私用の区分になっていたと思われる。また通路の途中に仕切りがあり表と裏の区分もあったようだ。中央写真 業務用の部屋。と言っても和室で文机で業務を行っていたのだろう。欄間の造りが格式張ったデザインになっている。右写真 2階へ上がる階段。左写真で解るように三和土から上がってすぐに上がれるようになっている。公側へ向いているので2階は客室として使用していた可能性が高い。階段は箱階段で、少しでも有効に活用するため、小物入れの引き出しが付いている。 

屋内の配線は大きな 木造の梁に碍子で挟んで止めてある。昔の旧家ではよく見られたものだ。座敷の照明は一般的なつり下げの照明器具だが、表の店の照明は、丸いガラスの球になっている。デザインされたガラス球がモダンな雰囲気を作り出している。建物の裏の方に廻ってみると別棟の水屋が有る。1階も2階も東側縁側越しに内 から外が見られる様になっている。縁側の外に雨戸が付いている。この辺りは台風の通り道でもある。しっかりとその対策が取られているのだろう。この建物の存在は市の文化財の評価でしかないが、この建物が存在する事によって多くの方に、当時の社会における会社業務の在り方を観て頂けるのでは無いかと思うと、この高田回漕店という建物の存在する意味は非常に大きい。

三角西港 高田回漕店待ち合わせ室天井
写真説明:  床が板張りで、壁は白い漆喰壁の外は木部が黒く仕上げられており、照明もデザインされた球形の照明を使っていてモダンな感じだ。待合や商談の場として使われていたかもしれない。梁を見ると田舎屋でよく見かける配線のガイシ止めが年寄りにはノスタルジーを感じさせる。 



<三角西港の未来への位置づけ>
 三角西港の存在する意味は、建物では無く、埠頭、排水路3、石橋4基、後方水路などが国の重要文化財に指定されている事でもご理解頂けるだ ろう。明治の頃に産業振興の目的で港湾が整備された所は日本では3カ所存在している。宮城県野蒜港、福井県三国港、そして熊本県三角港である。その中で当時の港湾施設として現在も残っている所はここの三角港(西港)しか無い。野蒜港は三角西港と同じように港湾施設とその港湾を含 む都市計画が行われる予定であったらしい。しかし河の土砂の堆積や台風の影響で堤防が崩壊し、開発中止を余儀なくされている。三国港は 511mの突堤が造られた。その後地盤沈下による改修を経て、近年に突堤の延伸工事が行われている。三角西港もある意味では開発計画の見通しの甘さがあり萎靡していく。これは計画上のミスと言えなくは無い。大金を投入して20年程で放棄される状態に陥っているからである。しかしそれだけ当時における日本産業の発展の見通しが難しかったのだろうと思う。三角西港は築港後九州の主要港になり、大量の貨物を扱うようになった。貨物の増大によって逆に貨物を捌ききれなくなったという結果を招いている。そのため港湾機能の他所への移転となり、衰退していく原因となった。しかしながら三角西港には埠頭施設だけでは無く、港湾都市として画かれた都市計画の要素があり、その事の方が私たちに与えた影響は大 きかったのでは無いかと思われる。またこのゾーンには幸いにも、又当時の文化に育くまれた建築物も幾つか存在している。それらは未来に伝えてい かなければならない多くの情報を持っている。また三角西港は広すぎず、環境保全が遣りやすい広さであり、三角西港の保存事業も早くから進められたことで、保存事業を阻害する施設群も見られない。そう言った意味では、世界の文化遺産に登録される前に、大方の保存事業が終了していたことを大いに言祝ぐべきであると思う。今後は、世界文化遺産の三角西港として多くの観光客が訪れる事になると思われ、観光を一つの産業と考えて、多くの人や車をどのように誘導し、捌くかに目を向けて行かなければならないだろう。道路の整備、駐車場の整備、海側からの観光視点を設定する。宿泊施設の充実、食事の質・量の確保。他の観光地との連携等、多種の検討すべき事があるように思う。

三角西港 入り口灯台 三角西港 反対側灯台
写真説明:  左写真 最初に三角西港入り口(南側)にある灯台型の道標。スリムでモダンなイメージがある。左写真 北側の出入り口にある道標。天草へのルートになっているからか、上部下段には十二使徒が組み入れられている。台座にはムルドルの業績を顕彰するプレートが貼られている。 


                                                                               電信文庫表紙ページへ