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シリーズ22 埼玉の史跡を訪ねて                                                         電信文庫表紙ページへ

第四景 懸崖式堂宇のある風景 

東武東上線の池袋から凡そ一時間の所に東松山という駅があります。その駅から東の方角に向って歩いて二十数分の所に吉見百穴があります。この吉見百穴が作られた年代は大凡七世紀頃の古墳時代後期に当たるようです。古墳時代という時代の設定は古墳を中心に考えた場合の時代設定です。私の学生の頃は飛鳥時代と習っています。つまり弥生-飛鳥-奈良時代という流れであったのですが、現在の日本の歴史は、弥生-古墳-(飛鳥)-奈良時代という流れで捉えられています。縄文、弥生時代の設定は生活文化を表しています。そういった意味では古墳時代でも良いのですが、奈良時代以降については政治の中心地を表す時代名の表記に変わっています。ちょうど古墳時代の最も華やかな後期と飛鳥時代が重なっているのです。明治17年、東京大学の学生であった坪井正五郎と言う人は地元の資産家の援助をえて、吉見町に埋もれていた横穴の調査に乗り出します。その調査の結果として彼が出した結論は、コロボックルという種族の住居跡であるという結論でした。コロボックルとはアイヌの伝説の中に出てくる小人達です。彼は当時、仲間と人類学会を創設しています。その時に取り上げられたのが、北海道のアイヌ民話に出てくる”コロボックル”という小人達のお話です。アイヌの先住民であったコロボックルはある時、アイヌと対立し、北の方へ逃げていったという伝説が残っていました。吉見百穴は、一般の人間達には小さ過ぎるので、こういった小人の住まいではなかったかと考えた訳です。このコロボックル居住説も坪井正五郎がロシアで横死(没年五十歳)する頃には消えて無くなり、今では横穴式の墳墓だったという結論に落ち着いています。ところで”百穴”は”ひゃくけつ”ではなく正式には”ひゃくあな”と言います。坪井正五郎は日本で人類学を始めたこと、また吉見百穴の調査など多くの業績を残した人で、高く評価すべき人だと思います。この吉見百穴は219室あるとされていますが、同じ吉見町の北東部の黒岩地区にはさらに大規模の横穴墳墓があります。ただほとんど調査されておらず、その数は想定ですが300から500室の規模があると言われています。古墳時代の埋葬と言えば、権力の象徴として存在していました。しかし庶民がこの様な古墳が作れるわけは有りません。また吉見百穴の様な玄室を持った横穴式の墳墓も庶民には縁遠い気がします。では地方の権力者の墓なのでしょうか。それにしては数が多いように思えて、この吉見百穴の墳墓の位置付けが、私にはまだしっくりと来ないのです。
東松山の駅を降りて、駅前のロータリーから東へまっすぐに行きます。東松山の駅は新しく出来たばかりのようで、綺麗でした。デザインは煉瓦積みの外壁で、ちょっと古くさい感じもしますが、落ち着いた雰囲気があります。
駅から左側の歩道を歩いて暫くして何か変だと気がつきました。ビルが幾つか閉鎖されていて街が寂れてきたのだろうかと心配になってきました。暫くすると看板があって”道路拡張のため閉鎖します。”と言う看板が有りました。納得です。今でも8m程の道路で、両側に3m程の歩道があり、充分な様な気がしたのですが。何か拡張すべき理由があるのでしょう。暫くして公共の建物が左手に見えてきました。その名前が奮っています。ウォーキングセンターと書いてあります。その入口には歩く街と書かれた旗も見られました。また駅に戻って知ったことですが、日本スリーディマーチ*1も開催されているようで、街おこしの重要なポイントとして、このウォーキングセンターが位置づけされているようです。
    *1: スリーディマーチとは3日間にわたる歩く祭典という意味です。発祥はオランダですが、日本ではこの東松山の大会が日本で最大規模を誇っています。もう34回(2012年現在)を数え、外国からの参加者も含めて8万人規模の大会となっています。 

懸崖式堂宇 東武東上線東松山駅  懸崖式堂宇 東松山ウォーキングセンター入り口  懸崖式堂宇 東松山ウォーキングセンター本棟 
東武東上線東松山駅  東松山ウォーキングセンター入り口  東松山ウォーキングセンター 本棟 
     
懸崖式堂宇 道路より2m程低い歩道 懸崖式堂宇 道路より2mほど低い歩道  懸崖式堂宇 交差点の手入れの行き届いた花壇 
道路(左)より2m程低い歩道(右)  同左 別な所  交差点の手入れの行き届いた花壇

そう言えば、歩道脇の2m程低いところに歩道が有りました。歩道の脇を又別な歩道が通っているのです。多分昔は排水溝だったのでしょう。そういった所にも、市が市民のウォーキングへの利便性を計って、力を入れているのが垣間見られます。また所々に花壇や植え込みがあり、ウォーカーの目を楽しませるように作られています。川を渡って少し下りになっている所から小高い丘に幾つもの穴が空いているのが見えました。左手に大きな駐車場、入り口の周りには立派なコンクリート製の資料館があります。これを見てまた私のひねくれ虫が騒ぎ出しました。この近代的な建物群と古墳時代の横穴墓のアンバランスが気に入りません。またその構内には休憩所や土産物屋まであり、古代人の墳墓としての取り扱いではなく、あまりにも観光化しすぎているように思われ、中に入って見る気が失せてしまったのです。私の考えていた古代人の墳墓は自然に中にあるだろうという想定から大きくはずれているものです。昔の面影を想念して木々を使って、ゾロゾロと這い回る人達を入れないように望遠で撮影しました。しかし後で見てみたら写真に架線が縦横に走っていました。失敗、失敗。

懸崖式堂宇 吉見百穴  懸崖式堂宇 吉見百穴 
吉見百穴_1   吉見百穴_2 

吉見百穴の周りには得体の知れないものがあります。岩窟ホテル、百穴温泉という代物です。岩窟ホテルとはホテルではなく、親子二代に渡って掘り進められ、作られたもので誰と言うまでもなく”岩を掘っている”が訛って、こう呼ばれていたようです。しかし今は危険だと言うことで人は住んでおらず、閉鎖されています。百穴温泉に到っては、温泉が出るわけでもなく、百穴にあやかり設けられたものと思われます。これらも吉見百穴の観光に便乗した物でしょう。これらのいかがわしい物とは全く異なり、重要な建物があります。百穴の少し手前にある、岩室観音堂という建物がそれです。

ここには岩をくりぬいてお地蔵さんが安置されていて、その上に懸崖造りの二階建ての小さな観音堂が有ります。観音様は2階の部分に祀られています。懸崖造りというとすぐに清水寺を思い浮かべますが、このお寺も発祥は大凡同じ頃の九世紀の初め頃です。弘法大師によって造られたという言い伝えがあります。現在の建物は江戸時代に建てられた様ですが、民間の信仰の対象としての形態を、良く表していると思われます。道路から見ますと岩に取り付いた門があるように見えます。しかしこの建物自体が観音堂で、他には建物はありません。建物の裏は急斜面になっており、その上は戦国期の城郭跡(松山城跡)になっています。その松山城が秀吉軍に攻め込まれた時に、以前あった観音堂は城と共に焼け落ちてしまいました。しかし信仰の対象として再建されて、現在に至っているのです。道路から上がる石段脇には、新緑の草が生い茂っています。石段を登ると左手に格子の隔てがあって、その奧は祠のようになっていて、お地蔵様が20体程安置されています。右手の方には岩が10mほど堀り貫かれ、反対側の道路側から光が入り込んで、壁側に並んだお地蔵様のお顔を照らし出しています。

懸崖式堂宇 岩室観音堂 遠景  懸崖式堂宇 岩室観音堂 正面入り口  懸崖式堂宇 石段を上がった右手の祠 
岩室観音堂 遠景  岩室観音堂 正面入り口  同左石階段を上った右手の祠 

このお堂の先は、急激な崖地になっていて、珍しいイワタバコの植物が生えていました。脇の小さな看板にイワタバコを採らないでくださいと書いてあります。ここにも不心得者が訪れて植物を採取していっているのでしょう。

懸崖式堂宇 イワタバコの群生 
イワタバコの群生 

右手には急激な箱階段があって2階へ登れるようになっています。階段の登りが急激なため、手すりは階段の上10cm位の所に並行に付いている状態です。階段を上りますと、8畳間ほどの広さがあって、正面が大きく開けて見えます。そんなに高い建物ではありませんが、目に入る青葉が、実に爽快な気分にしてくれました。右手の方に格子戸があって観音様が安置されています。その部屋の上の方を見上げますと、梁が縦横無尽に複雑に架けられている様に見えます。懸崖作りの建物がどういった構造を持っているのか、恥ずかしながら判りません。その梁の表面には何枚もの千社札が張られていました。どうやって張ったのでしょうか。小さなお堂ですが、お地蔵様といい、お堂の造りといい、また千社札や絵馬の数などから地元の人達の強い信仰心と暖かみを感じました。

懸崖式堂宇 岩室観音堂下階部と階段  懸崖式堂宇 岩室観音堂2階部分梁の構造 
  岩室観音堂下階部分と階段  岩室観音堂二階部分梁の構造 

先ほど、崖上のお城が攻められてその時に、この観音堂も焼失したと述べました。地図を見ますと確かにこのお堂の上に松山城というお城があります。しかしお城へ行く道が地図にはのっていませんでした。いい加減な私のことですから、どうにかなるさで早速、周囲をグルッと回ってみることにしました。山城ですので上の方へ行く路をたどれば着くだろうという、単純な発想です。1/3程周囲を回ったところに標識がありました。矢印があって松山城とありました。そして何か付記されています。”私有地を通りますので、迷惑を掛けない様にしてください”私がそれを見ていると横道から現れた少年が、「こんにちは。」と言って矢印と同じ方へ行きました。最近見知らぬ人には関わらない様にと、子供に教育している所が多いと思っていましたので、変な話ですが子供の方から挨拶されて、びっくりです。私も「今日は。」という言葉を返しました。そこには清々しい気分が漂ってきます。やっぱりこれが本当の人の在り方ではないかと感じました。道は個人の庭先を通って、山道に入っていきます。そんな急な道ではなく、緩やかな勾配の道で両脇には畑があります。2,3分歩くと急な坂になってあっという間に頂上に出ました。遠くには東松山の市街地が曇っているためか霞んでみえます。その山頂にあったお城の区画割りの図面を見ますと、幾つもの郭(くるわ)が周りをとり囲んでいます。松山城は山城の最も盛んな頃の代表的な城の区割りを持っていたらしく、国の史跡の指定を受けています。当時の面影を偲ぶ物は何もありませんが、その区割りと周囲の状況を見比べますと確かにお城の機能について少しだけ理解できたように思いました。山を下り、岩室観音堂の前を通って駅の方へ行きます。橋を渡りながら訪れた所を振り向けば、吉見百穴や観音堂のあるゾーンが川の向こう岸に新緑の木々に囲まれて見えます。その特徴のある岩肌も切り立って見え、この有意義な歴史散歩の終わりにふさわしい叙情感を与えてくれました。また機会があったら訪れたいと思いました。

懸崖式堂宇 松山城跡  懸崖式堂宇 ノカンゾウの花  懸崖式堂宇 岩室観音の前を流れる市野川 
松山城跡  ノカンゾウ(野萱草)の花  岩室観音の前を流れる市野川 


                                             
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