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子供の教育を原点に立って考える | |||||
幼児教育の本質とは | 山手線目白駅構内にある広告看板に”初めての「学び」を良い環境で”と謳った看板がありました。 (2013年当時)その看板の下の方には某ファミリースクールの名前が書いてあります。”初めて”という言葉と、 ”ファミリー”という言葉から連想しますと、就学前の教育を目指したものであると思われます。そのホームページを 覗いてみますと、就学前と言うより、就園前の教育を主として行っている様でした。 一歳から三歳までの年齢を 主に対象としているようです。もちろんそれから上の四歳から中学までの部門もあるようですが、主眼は一歳から 三歳までが対象のようでした。しかしここで大きな疑問に突き当たります。一歳を迎えた幼児に、本当に教育という ものが必要なのだろうかと。世の中には教育熱心?の親が数多くいるかもしれません。ここに疑問符を付けたのは、 幼児教育の専門の先生に見てもらえれば、将来の子供のためにきっと良いだろう”と思う親がいることです。本当 にそうなのでしょうか。もしかすると親が自分の遣りたいことをしたいために”子供に良い教育を受けさせてやりた い”という理由を付けて、子供の教育を放棄しているのではないかと思われるからです。またもう一つこういう考え もあるかもしれません。”小さい頃から社会や学校に慣れさせ、集中した高度の教育を行うことが重要だ。”と。 しかし、一方では人間性を重視すれば、基本となる親と子供の関係と言う点に焦点を当ててみればこれで良いの かと言わざるを得ません。この一歳から三歳までの期間は親と子の関係にとって、最も重要な時期ではないかと 思うのです。親と子は血の繋がりがあるが故に、難しい関係性もあり、現代の社会の中で親と子の接し方が後で 微妙な隙間を生じさせている様に思われるのではないかという疑念が残ります。それは一昔前の親類縁者、 大家族の繋がりが有った昔の家族制度を切り捨てた結果、起こった人間関係の問題とも重なっていると思われる のです。親子の関係は大家族制度の中では、大家族という、多くの大人達の手によって、子供にとってはオブラートに 包まれた様な親しみやすい世界であったのです。しかし大家族制度が崩壊して親と子が直接的に接するようになる と、その人間関係を関係を築いていく難しさを多くの親が感じるようになってきているのです。 親子の関係は、その子供の一生と密接に関係してきます。子供にとって親は先にいなくなります。しかしそれまでに 築かれた親子の心の繋がりは、子供にとって生涯に渡って大きな影響を与えるものになります。そのもとになる絆を 醸成するのが一歳から三歳の時期であり、親子の親密さ、愛情、葛藤など、最も深いところで親と子供の繋がりを 育てている時期なのだと思います。だからこの時期にこそ、親は子供に密接に接して、愛情を注がなければならな いと思うのです。 また一方教育という面から考えてみると、教育とは知識を教えることを教育と言うのではありません。また年長 者が、年少者を教える事を言うのでもありません。親が子供に何かを教えていく中で、親もまた子供に教えられる のです。学校でもそうだと思います。先生も生徒を教えるだけではなく、先生も生徒から学べることもあるのです。 親が「子供の教育の仕方が判らない。」というのを聞くことがありますが、それは基本的な”教育”という概念が 間違っているからだと思います。教育する者も、また学ぶ者の中にいなければならないのです。共に学ぶことが基本 としてあり、知っていることを教え合うことが教育というものの基本原理だと思います。 子供から学ぶことは何も無いと思っているならば、その人は親と言う立場にもなれないし、教育者にもなれないで しょう。そこには教えること、教えられることは知識だけではなく、物の考え方、心の感じ方、人や物との接し方など いろいろあるのです。その中には子供に教えられることも沢山あると思います。相手に一方的に知識を与えること が教育だと言う考え方は間違っているのです。現代の小中学校における学校教育の崩壊は、”子供に豊かな 知識を沢山与えることだ”とした教育方針から来ているのではないでしょうか。 もし人に教えることだけを考えるならば、教育者は教えを受ける者の三倍から五倍の知識が必要であると言われて います。それだけの力量を持った先生が果たしてどれくらいいるのでしょうか。故に教育者という地位にいる人もまた 学び続けなければならないと思うのです。 |
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教育の基本となる「学び」とは | ところで駅にあったこの公告の看板の文言の中には、教育という文字は使われていません。ここでは”「学ぶ」” と書かれているのです。この”学ぶ”という文字を調べて見ますと、”まなぶ”の古い形として”まねぶ”という 言葉が出てきます。この”まねぶ”は”真似する”からきています。つまり、まねをしていくことが学ぶの基本にある ということです。 また関連した文字で学習の”習”の字はもっとはっきりとしています。習う(ならう)です。見本があってそれを ならって学んでいくのです。”予習、復習”は学ぶことの基本と言われていますが、そこにも”前に習い”また、 ”後に習う”というように繰り返して学んでいくのです。 つまり乳幼児期の教育の基本は、そこにあると言っても良いと思われます。だから広告看板に「教育」とは書かず に「学び」と書いてあることは正しい表現だと思います。親や先生は、子供と一緒に遊びながら、いろいろな行動 の中で、良いお手本を遣ってみせる。それを子供が見てまねをする。それが「学ぶ」の基本であると言えると思い ます。親が子供に教えるという考えが親にあるとすれば、何を教えたら良いかと言うことになり、その方法が解らなく なります。昔からの言葉に”子供は親の背中を見て育つ。”と言う言葉がありますが、親が自分の言葉や行動を 正して行っていると、自然にそれが子供に伝わり、教える事になるのです。何も構える必要は無いのです。親が常に 自分の姿勢を正して、行動し、意見を述べる姿を見せれば、子供は正しく受け取り、学んで行くのです。 そのように大人が子供に正しさを示すことが大人に課せられた教育の基本なのです。 現代の大人は自分も学ぶ者であることを忘れているのではないかと思うこともあります。もし親が学び続けるならば、 子供は「学び」の道を正しく理解し吸収してくれますが、親が社会に対して自分勝手に気ままに行動していれば、 子供は正しい行動の知識と、親の行動の中に矛盾をみて、どう判断して良いか悩み、時には枠を外れる事も出て くると思います。 最近、電車の中でしつけの出来ていない子供達が騒いでいるのを見て、「親の顔を見たい」と思う人もいると思い ます。それは親の行動を子供がまねをしていると見る人達がいると言うことです。勝手気ままな親に学んだ子供は、 自然に態度に出てくると人は考えているということでしょう。子供の教育云々よりも、この様な親を教育してくれるような 学習所は無いだろうかと、この看板を見て思ってしまいました。 |
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呟き | 学びに卒業はない。いろいろな年齢で学び続けることが、人生であると思う。どんなに高齢になっても学ばなければならないことがあり、それを見つけて消化吸収する事が人生を送る上で必要だと思う。その姿勢を見て子どもたちも学ぶことを覚える。 | ||||
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染井吉野桜 木全体 2018年3月 撮影 |
染井吉野桜は起源が同じDNAを 持っているため一斉に花を付ける し、一斉に散るという状況を作る これが遺伝情報の面白いところだ。 しかし学びは個々で異なるため、 人間性の多様化が生まれる。 |
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染井吉野桜 花詳細 2018年3月 撮影 |