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 心で呟いた話    2023.11       Home page
     
  自由について考える   
自ずから頼って従う
 まず『自由』という言葉について考えて見ましょう。元々『は<自ずから>という意味で、『は<頼って従う>という意味を持っています。その示す意味を繋げてみますと、<自ずから頼って従う>という言葉になります。自由という言葉の中に従うという意味が含まれていることに注目しましょう。これを見て、「今まで思っていた自由の意味と違うな~」と思われた方も多いことでしょう。『自由とは、この<自ずから頼って従う>ということが本当の自由の意義に、最も近いと考えて良いのではないかと思います。一方、『自由という一語を辞書で引くと、<拘束から逃れる>、<気ままに行う>という意味だと幾つかの辞書には記載されています。明らかに先ほどの<自ずから頼って従う>と、辞書で示さる意味とはズレがあると感じます。多くの人が辞書の意味を『自由』の意味だと捉えて理解しているように思えます。が辞書の示す『自由の意味には含むべきではない範囲までも含んでいると思われるのです。そして多くの人が本来『自由に含めるべきではない一面を捉えて「自由だからと、社会性を無視した行動をしている例が多く見られます。そこでは「俺の勝手だろ。何をやるのも俺の自由だ。 という非社会的な言葉が聞かれてくる事もあるのです。これは『自由という言葉の本当の意味が良く理解されていないからだと言えるでしょう。辞書に書かれた意味で『自由を捉え行動すれば、混乱するのは考えてみれば誰でも解ることです。社会の中で、皆んなが好き勝手な行動をすれば、弱者にしわ寄せが来ることになります。また多くの人に不快感を与え、結果として言った本人が社会から排斥されることになっていくのです。
では、先ほど述べました『自由の本当の意味として<自ずから頼って従う>について考えていきましょう。この言葉の中で<頼って従う>の言葉には何に頼るのかの言葉が省略された形になっています。省略された言葉の意味合いは『自』つまり<自ずから>にあると想定でき、<自ずから(決めた理に)頼って従う>という意味になると思われます。
   
自分の能力に合ったハードルを設定し,それを越える努力  『自由』について極端な例を幾 つか挙げてみましょう。たとえばあなたが宇宙の真ん中へ放り出された状態を考えてください。そこではどうにでも動けますし、またどう動いても良いのですが、宇宙の広大さに比較して人間の動けるスペースが極端に小さく、上下左右いずれの方向にも動くことが出来るのですが、自由に動くという意味合いからほど遠いと言えます。拘束は全くありませんが、この状態が本当に自由な状態と言えるのでしょうか。また次の例を取り上げてみましょう。2005年末の頃、あるビール会社の宣伝で、野球を使ったコマーシャルが流れたことがあります。その趣旨は忘れてしまいましたが、バットでボールを打った選手が一塁ではなく、本塁から三塁へ走るという映像が使用されたものでした。もちろん野球には本塁から3塁へ走るというルールはありません。一つのパロディとして採用されたのでしょう。本塁から必ず一塁へ走るということが、野球競技のルールです。また野球だけではなく、いろいろなスポーツ競技でのルールは競技を進める上ではなくてはならないものです。それぞれの競技には、いろいろと細かいルールが有って、選手一人一人が決められたそれらのルールを守って初めて、競技として成り立つのです。また各競技にはルールが適切に行われているかを見極める審判員がいて、競技中のルール違反に常に目を光らせています。ではスポーツの中に自由というものは無いのでしょうか。スポーツとは決められたルールの中で自由に動いて競うことが目的であり、それが人を楽しませるものなのです。 人間は社会生活の中で生きる動物です。そして人と人の関係の中で人間社会のルールを守り、その中で人々が自由に動き、人々が自由に動けることが求められるのです。

 今度は個人という立場で『自由』を考えてみてみましょう。自分が<あることを遣りたい。>と思ったら、まずどうするでしょうか。物事を進める手順を順番に、ああしてこうしてと考えると思います。そこでは自分でルールを決めて、それに従って物事を進めて行くようにするのです。それがうまく行った時に、強い充足感が得られるのです。学術的評価、スポーツなどもそうです。設定された目標というハードルが高ければ高いほど、その達成感は高くなってきます。逆に言い変えると、満足できる達成感は、高いハードルが有ればこそ生まれてくるものだと言えるでしょう。この場合のハードルとは、それを行う世界で決められた規則と、自分の設定した高い理想の上に築かれた目標だと言えると思います。自分の行動に、より厳しい規則を当てはめて行くことによって、また自分に科すルールが厳しければ厳しいほど、質の高い自由と満足感が得られるのではないでしょうか。なにか矛盾しているようにも思われるかもしれませんが、『自由』というものの本質はそういった所にあるのかもしれません。
 また別な方向からも考えてみましょう。今の世の中には、膨大な情報が常に放出されています。それらの情報源から何を取っても自由です。しかしその情報は、その人の目的に沿ったものでなければ意味がありません。情報を有効に活用するためには、その人が適切なルールを持って情報を選択するかにかかってきます。学術の論文でも、スポーツでも、一般人の生活の中でも情報を間違って選択すると、とんでもない結果が生じます。何でも選択できるということは、間違った選択をしても、本人が理解しない限り、他の人にはそれはわかりません。その積み重ねの上にできるものは何なのでしょう。きちんとしたある法則に則って条件を設定し、そうして必要な情報を選択する。それで初めて情報の価値が生まれてくるのだと思います。個人で情報を正しく選択していくルールを築くことは、非常に困難なことです。そこで先人達の知恵を利用する必要があるでしょう。先人たちや仲間、お年寄りの豊かな経験から学び取り、そこから何を正しく選択できるのかを見極める事が重要なのです。『自由』もまたしかり。何でも行っても良いと言うことではなく、人から非難されれば、それは世間からつまはじきにされる事になります。そうならないようにまず自分を人間社会のルールを守る人間として確立することが必要でしょう。自分の好き勝手な行動をしていては、本当の自由を謳うことはできません。本当の自由は、自分に合ったより厳しいルールを背負うことによって生まれるものであると思います。
     この文章は 電信文庫 シリーズ8 "日本語の面白さ"、シリーズ27 "自己啓発の思考”の一章の一部を改編した
   ものです。  
 
 呟き   自由であることは人が決めることでは無い。己の中で決めていくことである。今の自分の立つ
 位置から下を見れば拘束になり、高く上を見れば自由になる。 
   
  西田幾太郎碑文 京都・哲学の道にて (中程)
 西田幾太郎の碑文

  2010年11月 撮影
(碑文の表記)

人は人吾
はわれやとに
かくに吾行
く道を吾
は行くなり

(文章)

人は人
吾は吾や
とにかくに
吾行く道を
吾は行くなり

(自由人の発想と思われる)
         
    何思う猫  京都・哲学の道にて (銀閣寺寄り)
 ベンチに佇む猫・何を思う

  2010年11月 撮影
犬の好きな人と猫の好きな人がいる。犬は良く人に懐き、従順であり、一方猫は我が強く、行動が自由であると一般的に言われている。この猫は何を考えているのだろうか

                                         

        

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