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 心で呟いた話    2023.10       
     
   山や川は人より優しく、人より多くの言葉を持っている   
山川に恵まれていれば、孤独にはならない。 
山や川は人より優しく、人より多くの言葉を持っている


宮城谷昌光著
『楽毅』    より  
 
  本を読んでいてインスピレーションを受けた話をもう一つ取り上げて見ましょう。宮城谷昌光氏の著書をよく読んでいると前回書いていますが、その著書の中で見つけた文を取り上げましょう。春秋・戦国時代(紀元前300年頃)の勇、楽毅(がっき)という人を主人公にした歴史小説『楽毅』に書かれていた言葉です。楽毅が若い頃、齋(せい)の国の首都・臨淄(りんし)に遊学していた時、都会の雑踏の中にいる自分と、中山国(ちゅうざんこく)の自然の中にいる自分を比較して語る言葉が書かれています。山川に恵まれていれば、孤独にはならない。「山や川は人より優しく、人より多くの言葉を持っている。」という文章です。
 楽毅は中国史上、数本の指に数えられる戦略家です。中山国という弱小の国にあって、当時最も強大であった趙(ちょう)と対等以上に戦いました。それでも国力の差で中山国が趙に滅ぼされた後は、北方にあった後進国の燕(えん)に移り、強力な軍隊を作り上げて、もう一つの雄国であった斎に攻め入り、数年で70余城を手に入れて斎の国を滅亡の縁まで追い詰めた武将でした。その時齋の国に残ったのは山の中の小さい2つの城だけになっていました。この言葉はその楽毅がまだ若い頃の話です。彼が中山国という小国から、当時最高の文化や学問があったとされていた斎の首都・臨淄に学びのために来ていた時、街の中で従者との会話として語られています。当時、臨淄にはおおよそ70万~100万人の人達が暮らしていたと推定されています。臨淄という都市の人口は、今の東京の人口一千三百万人に比べれば少ないように思わますが、その市街地の広さは、山手線内よりも数倍も狭く、人口密度という視点から言えば現在の東京よりも多くの人が密集して生活していたと考えられます。当時の街の様子を書いた部分には次のように描かれています。”歩く人は肩が触れあい、袖が千切れそうになり、車は車軸が互いにぶつかり合って擦れ減り、車輪が外れるほどであった”と言うように表現されています。その様な密集した都会の中にいた時の言葉がこれです。
「山川に恵まれていれば、孤独にはならない。」 大都会にいても人との交流が少なければ人は孤独になってきますが、自然が豊かにある中では、たとえ一人で生活していても孤独感は感じることがないと言うことでしょう。その次に書かれている文章がまた至言であると思います。「つまり、山や川は人より優しく、人より多くの言葉を持っている。」現代の大都会では、アパートやマンションで老人の孤独死が年に幾つか伝えられていますが、田舎ではそういうことがあるとは聞こえてきません。田舎で過疎化の土地に住んでいる人たちが、孤独の中で、うちひしがれているとは聞いたことはありません。最近テレビ番組で”ぽつんと一軒家”という番組が放送されていますが、そのぽつんと一軒家に暮らしている人の優しさ、表情の明るさは番組を見る人にほっこりとした思いを与えてくれます。自然は強い風や激しい雨によって、洪水や山崩れなど厳しさを表すこともありますが、いつもは人に優しく接してくれます。そして人々にのどかな自然の装いで人の心を優しく包み込んでくれるのです。
     
 天と語り合っているのに、なんで煩わしい地上の政治に関わらなければならないのか

宮城谷昌光著
『天空の舟』 より
   人間と自然の関わり合いについて考えさせられるもう一つの話を取り上げて見ましょう。中国の古い時代、夏(か)という国が全盛期を過ぎ、商(しょう)に変わろうとしていた頃(紀元前17世紀頃およそ3700年前)に活躍した人に伊尹(いいん)という人がいます。伊尹は後に、夏を滅ぼした商の国を大きく動かしていく宰相(首相のような立場)の地位に上り詰めます。そして後世の有識者に聖人のように慕われる人です。彼は生まれた時に洪水に遭い、母親に大きな桑の木の<空(う)ろ>の中に置かれ難を逃れました。そして川を流れ下り、ある国の貴族に拾われたという経歴がありました。そういった意味で彼は自然に生かされているという意識を持っていたのかもしれません。一時期、厨人(料理人のこと)として后(ごう=邦の首長)や王(国の首長)に仕えていましたが、その後、職を失ない野で暮らすことになります。そのため、荒れ地を興す開墾から始めて農作業をおこなっていきます。農作業は季節ごとの自然を知り,植物の理を生かして進める作業です。つまり自然や植物を深く知ることが必要です。伊尹の行っていた農業が上手くいっているのを見たり、農作業のノウハウを近隣の人達に教えていたかもしれませんね。次第に彼は博識の人として知られるようになりました。それを聞きつけた商という邦の后に三顧の礼(後述)を持って迎えられることになります。最初に商の后は使者を使って、商に仕えて欲しいと伝えましたが、しかし伊尹に会った使者は、伊尹の次の言葉を持って帰ってきました。「天と語り合っているのに、なんで煩わしい地上の政治に関わらなければならないのか。」そう言ったと古書に記録されています。農作業の中では、自然ときちんと向き合っていってこそ、豊かな実りを得られるのだということでしょう。自然は摂理に合った行為には優しく答えてくれますが、非条理な行いには厳しい結果を与えるのです。自然の摂理を理解するという中に、自然と対話するという人の姿勢があると考えられるのです。当時の政治では 農政を制することが最も重要でした。農業が上手くいけば、収穫量も大きくなり、多くの人を養うことが出来ましたが、逆に飢饉にあえば、稔りは少なく人々はそこから離散して行ったのです。ですから国を大きくするためには、太陽の変化を読み、風を感じ、水の豊かな流れを統御出来れば、それが豊かな国を造ることになったのです。自然は言葉としては発しないが、自然の営みを正しく理解し、その理解の上に立って植物を育てていけば、それが自然がくれた優しい返事として帰ってくると理解できるでしょう。その思想がこの文章に表現されていると思います。
 ついでに三顧の礼について記しておきましょう。三顧の礼は三国志の中の劉備が諸葛孔明を師として迎えるという著名な場面で語られていますが、実はそれより数百年前にも同じようにして国の王となる邦の后に、三顧の礼で迎えられた人がいたという事が歴史書に書かれています。一人目はこの伊尹で商の后・湯(とう=商の初代王)に三顧の礼で迎えられます。二番目はそれから500年後に太公望が、後に商を滅ぼして周の国を立てる昌(しょう=周の文王)に三顧の礼で迎えられます。
師と仰ごうとする人の話を何度も聞くために師の元に訪れるのです。そしてその人柄、話の内容に感銘して后の元に来てもらい師として后が仕えるという形を取るのです。これに関連した話をもう一つ付け加えておきましょう。『偉大な王には”師”がいるが、普通の王には”親しい友”がいる。劣悪な王には命令を聞く”奴隷”しかいない。』 昨今の上司には耳の痛い話かもしれませんね。
       この文章は 電信文庫 シリーズ27 ”自己啓発の思考”の一章の一部を改編したものです。  
   
 呟き     人が自然や植物を理解し、向き合って会話するように、人も同じように他人を理解して接することが出来れば、もめ事は少なくなるのだろうな~。師を持つ。なかなか難しいことだ。 
     
    大徳寺躘源院 枯山水の庭の草たち
  京都・大徳寺塔頭龍源院

枯山水の庭の岩陰に見えた草たち。彼らはそこにいることで、枯山水という特殊な場所で生き続けている。それを見て人に伝える言葉を発しているのかもしれない。
         
    南禅寺金地院 小さな苔むした灯籠
 京都・南禅寺塔頭金地院

作庭された庭にたたずむ苔むした小さな灯籠に目が向くと、そこから見る人との対話が始まる。

                                         

        

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